御座地域の口承・昔話
 

  これらの作品は、「志摩町史」等からとった。この町史も御座住人からの聞き取りの外、本ページも掲載した「御座嶋由来記」、「鳥羽志摩の民俗」(岩田準一)及び「志摩の民俗」(鈴木敏雄)を基にしている。
 


@ 黒森の怪物


 むかしむかし、御座の黒森の奥に、怪物が住みついていたそうじゃ。夜になるとその眼はらんらんと光り、炎のように見えたそうな。
 村びとたちは、夜な夜な光るこの怪物の眼の光をおそれて、黒森近くの海へは漁にも出ずにおったそうな。
 それを聞いた越賀の若宮八幡さまが、大変おいかりになって「そんなにみんなが困っているのなら、このわしが怪物を退治してあげよう」
 若宮八幡さまは、ある夜大きな弓と矢を一対持って、村の前の島へわたり、炎のように見える怪物の眼を目がけてヒョウと矢を放ったところ、矢は黒森近くの島をかすめて浜島の方へ飛んでいったそうじゃ。
 ふしぎなことに、その次の日から怪物は姿を見せず、御座や越賀の漁師は安心して漁に出られるようになったんじゃと。
 浜島の方に飛んでいった矢は、浜島の先にある小島へ流れついて、村の人が拾いあげたんじゃと。
 何年かたって、黒森の林の中で大きなしし頭を見つけ、これを漁師たちが拾って「これは、きっと何年か前に、越賀の八幡さまに射ぬかれた怪物の化身にちがいない」
 「そんなら、このしし頭は越賀へ持っていこう」ということになったんじゃと。
 越賀では、このしし頭を西の宮にまつることにしたんじゃが、ししの眼の玉はまっ赤に光って、それはそれはおそろしい顔をしていたそうや。
 それからは、矢を射った島を『一対島』、矢をかすめた島を『矢すり島』、矢を拾った島を『矢取島』と名がついたそうじゃ。
 また正月の十一日に越賀と浜島の神社では『弓祭り』を同じ日にしているのも、この話が元になっておるということじゃそうな。

   
A 豊玉姫命と懐し浦

 大昔、地神五代の御神、彦火々出見尊が竜宮の御姫豊玉姫命をめとられて、今の浜島と塩屋との間の地にお住まいになっていた。姫神が御懐妊になり、すでに産月になったとき姫神が仰せられるに、「妾の産に臨むとき必ず妾の姿を御覧にならないでください」と。
 然るに若宮がお生まれになり、御産声が高らかに聞こえたので夫神は思わず産室を御覧になった。姫神は竜形の御体であった。若宮は「うがやふきあえずの尊」と申し、後の神武天皇であらせられる。
 豊玉姫はしばらくそこで御子を御養育になったが、お体を夫神が御覧になったのを恥ずかしく思い、やがて御暇を願い出て竜宮へお帰りになろうとして遠く海上を御覧になっていたが、お迎えとして一匹の大鰐があらわれた。姫命はそれに乗って御座島(村)にお渡りになり、浜島浦の方をお望みになって「あらなつかしや」と仰せられた。御座の総名を「なつかし神」というのはこの時からである。
 姫命はしばらく御座島にお住まいになり、矢文をもって夫神が若宮の御機嫌をうかがわれた時、浜島浦の小島に夫神の使臣があって、その矢文を差し上げた。「矢取島」というのはこのためである。
 後に、姫命はまた鰐に乗って「見崎」のあたりにお出でになり、浜島の方を御覧になって「恋しい」と仰せられた。現在、この地方を「小石浦」といっている。お乗り捨てになった鰐はついに岩石になってしまった。この島を「御船島」といっている。この御船島に櫓櫂をあてれば、その日のうちにたたりがあるといわれた。
 見崎には先端の所に一神祠がある。豊玉姫を祀った社で、ここに豊漁を祈れば効験があるといわれている。


B 神功皇后と御座島

 昔、神功皇后が遠征のお帰りのとき、御礼のため皇大神宮へ参拝された。九州からはるばるこの豊葦間の港へ船を留めた。その時の御座所が「白良浜」―今の白浜―であった。これから御座島というようになったという。
 この時、食料がなくなったが、風波が強くてどこにも救いを求めることができなかったので、矢文をもって急を告げた。清浜の武士の高円(たかまど)がとりあえず白米を献して以来、その地を「飯米島」―はまじまーと称し、矢を祀った所を「大矢の社」とし、その武士の名も「大矢高円」と改めた。今の「大矢取」「小矢取」の二島はこのための名称である。
 その頃、この見崎山に鬼が住んでいて、二頭六足の鹿に乗って海上をも走りまわって里人を苦しめていた。皇后は大いにこれを憐み給い、武臣の武内宿祢(たけのうちのすくね)に命じて征伐させた。大矢をもって射り、矢はあやまたず忽ち彼の鬼の乗る鹿に命中した。鹿は驚いて東方に走り「血曳の浦」―ちびきーを過ぎて死んでしまった。その鹿の超えていったところが「越鹿」―こしかーで、今の越賀であるとされている。
 また、見崎山に小祠が祀られているが、それは「美差幾大明神」で祭神は神功皇后と天皇とであると。

   
C 神さまの鬼退治

 御座に神さまがお住みになっていたころ、御座の鼻にある見崎山に鬼が住んでいたそうな。
 この鬼は、頭が二つで足が十二本ある怪じゅうのような鹿に乗って、里の人にいたずらをしたり、大切な稲を食い荒らしたりして里びとを苦しめていたそうじゃ。
 このことをお聞きになった神さまは、里びとをたいそうかわいそうに思い、弓がじょうずで力持ちの武士に「里びとが困っている。悪い鬼を退治しなさい」と命令されたそうじゃ。
 その武士は、大きな弓矢を持って見崎山へ行き、鬼を見つけて弓を力いっぱい引いて矢を射ると、矢はピューとでっかい音をたてて飛んでいき、鬼が乗っている鹿に命中したそうじゃ。
 鹿はびっくりして、鬼をふり落として血を流しながら、東の方へいちもくさんに逃げていったそうじゃ。
 もんどりうって落ちた鬼は、見崎山の大岩に頭をうちつけ「ウーン」とうなると、うずくまったので、そこをすかさず二本目の矢で打ち殺してしまったんじゃ。
 血だらけになった鹿は『血曳の浦』をかけぬけて隣の村まできて、とうとう死んでしまったということじゃ。
 そこで、鹿が越えた所を越賀と呼ぶことになったんじゃと。
 後でわかったことじゃやが、この神さまは戦の神さまの『神功皇后』さまで、鹿を打ち殺したのは『武内宿彌』であったことを知って、村人は見崎山の頂上に、『美差幾大明神』のやしろをたてて村をすくってくれたおふた方をおまつりしたんじゃと。


D 御座島のはなし

 むかーしむかし、ひとりの神さまが、船に乗ってはるばる九州からおいでなさったんじゃと。
 その時、お着きになった所がまっ白い砂をしきつめた美しい景色の白浜だったんじゃ。
 そこに急づくりの家を建て、御座所になさったんだと。
 それから、ここを御座島というようになったんじゃよ。
 あるとき、天気が荒れて風が強く、大波がおしよせる日が毎日毎日続き、ついに食うものが無くなってしまったので、向かいに見える島に矢文(手紙を書いて矢に結びつけたもの)を放ってすくいを求めたんじゃと。
 あんのじょう、対岸にいた清浜の高円という人が、その矢文を見て「さぞお困りのことであろう」と海の荒れているのにもかまわず、米を持ってきて「海が荒れているので、たくさん持てませんでしたが、いっ時をしのいでください。天気が良くなり次第たくさん持ってきますから」と神さまにさしあげたんじゃと。
 神さまは、大そうよろこんで、それいらい向かいの島を飯米島(今の浜島)と名付けられたそうじゃ。また、その矢文が流れついた島を矢取島、小さい島を小矢取島と名付け、矢文をひろった武士を大矢高円とあらためたということじゃ。
 それからは、御座島と浜島の猟師たちは大へん仲良くなり、魚のとりっこをして大へん栄えたということじゃ。

   
E 御座の爪切不動(岩田準一編)

 御座村の爪切不動(字宮の前にある)は昔、空海がこの村へ巡錫のおり自然石に爪で刻んだものと言われている。この誓願のために七日の護摩を焚かれたが、その場所は現在の金比羅山頂で、それゆえこの山を昔は聖が嶽と称した。中古において金比羅を祀るようになってから、今の山名に代わってしまったのだと言う。

   
F 土竜(おごろ)避けの土(岩田準一編)

 御座村には昔からオゴロ(もぐら)がいない。これは爪切不動尊が嫌っているという故である。
 それゆえに、不動堂の下の土を畑の周囲へ散布すれば、土竜(もぐら)の害を除くといわれ、近村の人たちは少しずつ持ち去るといわれてきた。
 また不動の下の土を濁井戸へ撒けば、濁りが澄むとも言われた。他所から来る参詣人でこれを持ち帰る人がなかなか多いそうである。


F’ もぐらは住まぬ(鈴木敏雄編)

 昔弘法大師が志摩の地方を巡錫せられたとき、まず越賀村に来られた。その時とある富家に宿をかしてくれるようにとお頼みになったが、見すぼらしい旅僧の姿を見て聞入れてくれなかった。又一軒の家にも同じようにお頼みになったがその家でも断られてしまった。たいしはむなく大山を越えて御座村においでになった。
 ここで一軒の家におはいりになり、今夜一晩宿めてくれないかとお頼みになった。その家の主人は、旅に疲れているその僧を見て、「御覧のとおりのあばらやですが、お気にとめられないのならば御寄り下さい。」と、懇にもてなした。その家は、今の山口久左衛門氏の遠祖であるという。翌日からはこの家に永く宿って、不動明王や経石を自らの御爪で刻まれたのである。
 この地を去られるに当たって、何か願望の筋もあらば聞きとどけてやるぞ、とのことで、主人は、畑に「もぐら」か゛多く、作物を荒らして困ります、何とかしてその害をお除き下さることはできませんでしょうか、とお願いした。大師は、いと易き願いである、とて、御口のなかで何か呪文を唱えられ、これで明日からは一匹の「もぐら」も、この村のなかには住わせないことにしたから、安心して農事にはげむがよい、と仰せられ、再び見す簿らしいお姿でお立ちになった。
 このことを聞き知った越賀村では、大師を追って、私の村にももう一度おいでを願って「もぐら」を退治して頂きたいと達てお願いしたが、終にお聞届けがなく、いずこへか御立ちになってしまった。今日でも御座と越賀を界にして、御座村では一匹も「もぐら」は居ないという。


G 経塚(岩田準一編)

 御座村には現在五ヵ所までは所在の明らかな経塚がある。古くは七ヵ所もあったとも言い伝えられている。また古書に六ヵ所とも載っているそうだが、五ヵ所以上は分かっていない。これらは悉く、空海巡錫のおり小石に経文を書いて埋められた跡だと言われている。


H 石仏(岩田準一編)

 御座村の波止場に上陸して、磯伝いに右方へ半町程回れば岸から二間程離れた海中に一個の巉巌(高くそびえた岩)がある。里人はこれを石仏と称し、男女腰から下の病を一切治すと崇信が篤い。昼夜二回の満潮にも半分を浸すだけである。
 現在その浜を石仏と称しているが、古くは袮神浜の名であったという。今でも浜の向こうの巉巌を俗に「メーガメ」といっている。石仏の縁日は毎月十五日、村の人は団子二つを土器に盛り、松葉を箸として供えている。
 以前にある船が御座と越賀の間にあるヤスリ島の付近で船底を破損させ、難破しようとしていた。前方の御座村の爪切不動を念じたところ、その破損の箇所にはいつしか大鮑が密着していたので、幸い難を逃れて島へ船体を引き揚げることが出来た。一同に不動の利益を尊したという。


I 狐に憑かれた娘(岩田準一編)

 姉妹が揃って山へ仕事に行き、弁当のおかずに鯵を四匹持っていった。食べる時、山の稲荷へ二匹だけ進ぜたのはよかったが、残りの二匹をすっかり食べてしまうと、一人の娘は進ぜた二匹も欲しくなり、それを食べてしまった。それから「稲荷さんはこれで結構や」といって食べ残りの骨を上げて帰ってきた。
 ところが、それを見ていた狐がまもなく稲荷さんの魚を取って食べた方の娘さんに乗り移った。
 初めの内は気がぼんやりとしていて、夜中に目を覚ますといきなり立ち上がって庭へ飛び出し、両手足を曲げて動物の恰好をして地面へ寝転んだりする。親たちが心配して床へ寝させると暫らくは寝るが、また起き上がって地面へ転がったりする。狐が憑いたらしいので、家内中大騒ぎをして憑いた狐に言い含めて納得させ帰してやった。その日はけろりと直ったが、次の日になって本人が妙な挙動をしだした。本人が言うには最初に憑いたのは夫婦狐の雌の方であるが、言い含められて帰ってきたので、亭主狐の方は大いに怒り、「今度は俺が行って憑いてやる」と意気込んできたというのである。
 家中のものも困ってしまい、日本刀を引き抜いて娘に差し向けて見せたりするが、その時に限って身を震わせ恐ろしがるものの、やはり狐は去っていかない。一方に二本刀を閃かし、一方に稲荷の祠をの扉を開いて本人を左右から攻め「さあ早くこの祠へはいってくれ」と頼むが、反対に日本刀の方へ身を寄せてきて、身体を縮めて狐の恰好をしながら怖がるだけで思わしい効き目もない。そこでいろいろと思案した挙句、狐が憑いたら不意に身体を倒してやるとその拍子に抜けてしまうという話を聞いたので、それをやってみた。本人は身をもがいて苦しみだし「苦しい苦しいもう行くから鯵をくれ」とはじめて稲荷に供えた鯵の話を口走り、夫婦揃って憑いたことを白状した。鯵をやり、いろいろ得心のいくように話を聞かせて「もう決して憑いてくれるな」と念を押して抜けさせてやった。それで本人はその日に身体も全快し日常の状態になった。
 ところが、その次の第三日またまた今度は違った狐が憑いた。これは夫婦狐のすむ山を取り締まっている頭領株の狐であった。当の娘も毎日のことで体も段々弱っていく。一体なんでまた憑いたのか聞いたら、山の領分の事から稲荷の夫婦狐と争いたいので憑いたという。同じ山に前から住んでいて、自分は四二町の領地を持ち、稲荷の狐の方は三六町しか持たぬのに山を占領しようとする。それで困って人間に裁きをしてもらおうと考えて憑いたのだと言う。事情が分かったので双方ともにうまい具合に話をつけて暫らく去らせたそうだが、それ以来、そんなことは絶えてなくなった。稲荷狐の憑いた時に、郵便ハガキで娘の体を擦ってみても何の効き目もなかったが、稲荷の札で擦ると、直ちに本人は体をピリピリさせて苦しがったそうである。
 右の話の当人は談話者の娘であり、談話者はこの事があって以来、従来固持していた迷信打破の考え方が覆されてしまったと語られた。


J鮑が血にかわる(鈴木敏雄編)

 御座村の先端、地図に御座崎とあるところ、里人はこれを「見崎」とも「黒森」とも云っている。「見崎」は遠くを眺見し得る意であるというが、私はこの地に種々の怪奇の伝説があるので「御崎」であろうと思う。「黒森」というのは、雑樹とくに椎の大木が森々と繁茂して、千古斧鍼を入れない地であるからであろう。
 この見崎の下に「くぐり岩」があり、その先に「御船島」〔おふねじま〕というのがある。昔は相当に大きい島であったが、漸次浪のために海蝕をうけて、今は一つの小島と、これを取巻く多くの暗礁とである。古来この島やその附近では鮑をとることを堅く禁止していた。採れば忽ち海神のたたりをうけるという。ところがある若い海女かそんなことを露知らず、ここに鮑を採った。古来誰一人として採らない地であったから、大きい鮑が盛んに繁殖していた。「こんなに多数に取れるところかあるのに、村の海女は全く知らないのであろうか」と、半ば疑い、半ば喜び、磯桶一はいに充して夕刻帰途についた。ところが坂道において誤ってよろめき脆き、やっとのことで磯桶を岩の上に置いた。多量に採り得た喜びをもってその桶のなかを改め見たか、驚くべきことに、磯桶のなかに採り入れた一ぱいの鮑は、全くことごとく血綿に変っていた。海女はおののき恐れ、岩坂の険しいところを、どこをどうして辿ったのかの記憶もなく、やっとのことで家に帰ったが、そのままどっと重い病いの床についてしまった。
 翌朝早々神官に懇請して、お許しの祈祷をささげたが、少許にしてけろりと回復してしまった。里人は今更ながら、古来禁漁の由来に感じいり、今に誰人もこゝに鮑を取ることはない。


Kドンドロ池(鈴木敏雄編)

 御座の里の西方には砂丘があり、人家も数戸建っている。この砂丘上には少許の畑地もあるが、その畑地の北限、丘陵と接するあたりに凡十坪ばかりの池がある。周囲は砂地のように思われるが、寒中のほかは一年中概ね水を貯えている。勿論畑地に供給する水もここから得るのである。里人はこの小池を「ゴロドン池」とも「ドンドロ池」とも称している。
 古老いう、この地に昔巨人が住んでいて、この池の側に巨大な住家を建てており、浜島へは常に海を一またぎにして往来していたと。
 「ゴロドン」は「ドンドロ法師」、「ダンダラ法師」と同じ意味の言葉である。本邦では西部、中国、九州あたりでは多く「ゴロドン」と云い、関西地方では多く「ドンドロ」、「ダンダラ」の言葉か用いられている。いずれも巨人伝説の残存を証しておる。志摩ではこの伝説が多く残っている。多くは「ダンダン」であるが、立神では「ドンドロ岩」などがある。御座ではその伝を失している。
 古老又いう、昔鳥羽藩のころには、この地に近く罪人を処刑した刑場があり、山手に近く小祠があり、それらの人々の霊を祀ったと云われる。「ゴロドン」はそれらの処刑者のうちの「五郎殿」ではないかと。
 この「五郎殿」は、御座神社の記録に「山神五郎殿神社」とあるので、処刑者五郎殿ではあるまい。一里老は、「五郎殿」は 「ゴロドン池」の北方山手の小祠として祀られていて、一区の地に老樹か生茂った霊地で、祭神は鎌倉権五郎であるとのことであると。今日ではいろいろの伝説が混雑して複雑なものになっている。

(注)この池では近い頃元御座小学校の馬杉先生が「ぶち山椒魚」が棲息していることを発見している。


L光る大木の神像(鈴木敏雄編)

 御座の里の東方にハ王子神社があり、里の守護神であった。又その北方の浜を「宮の浜」と称している。
 昔ある年、この宮の浜に一本の大木が流れ寄り、それが毎夜きらきらと光輝をはなつので、里人はこれを見て非常に恐れていた。ある夜、この大木の霊が白髪の老人と化し、庄屋の夢枕に立って仰せられるには、「われこそは社宮神〔しゃぐうじん〕とて、いと荒き神であるため、追われてこの村に来たのである。われをこの里の東の宮として祀ってくれるならば、永く里人の行旅の神として守護神となろう。」と見て夢はさめた。
 庄屋は不思議の思いをなし、早速村人に通じ、五六人の年寄衆とともに彼の大木を見たのに、その切小口のところに蓋のようなものがあり、それを明けて見るに、中に古びた木造の神像があり、更に六百巻の大般若経がはいっていた。庄屋は急ぎ帰り、里人全部をあつめて熟議をこらし、御経は潮音寺に納めて宝物とし、神像はハ王子神社の傍らに新しく一社を建立してお祭りした。之が旅守明神〔たびもり〕である。以来遠近から行旅安全の祈願をかけにくる人が多かった。
 古老 又いう、昔宮の浜に一漁船が、夜に入って帰ってきたところ、浜に近く大木が光りつN流れ寄ったのにおどろき、櫓をもって突き飛ばして漕ぎつゞけ、宮の浜に荷をおろして船をつなごうとしたところ、又その大木が船に流れ寄って来た。これはまことに不思議であるとして、ことの次第をくわしく庄屋に訴えた。ところが庄屋は一向取りあげようとしないので、そのままにして日を過した。数日にして、その船は又前の浜から宮の浜に帰ろうとするのに、前の夜と同じ不思議のことがあり、翌朝早く又庄屋に訴えたところ、庄屋は大いにおどろき 「自分も昨夜不思議のゆめを見た。そして、われは旅守の神である。われを宮の浜に祀らば、この里の人々を旅の困苦から免れしめると白髪の老人が告げた。」と話したが、今度は漁師の方がおどろいた。庄屋は早速に里人と謀り、社をハ王子社の側に建ててお祀りした。これが旅守明神であるという。
 これは神仏習合の説を、古き寺憎が伝えたものであろう。古い大般若経と思われるものは潮音寺にはない。旅守明神は今御座神社に合祀せらわている。
 古老云う、初めてこの光る大木を発見した漁船の船主は、今の山木竹右衛門氏の遠祖である。竹右衛門氏は昭和廿六年頃八十余歳で死亡したが、その光る材木の回りは約七尺、長さ約ハ尺であったとの言伝であると云っていた。これ位の大きさの材では、その中に六百巻の大般若経は入れることはできないようである。


M池の浜の美石

 昔持続天皇が、伊勢の神宮の御迎宮を行わせられたとき、この御座村にも行幸になり、里の東方の台地に仮宮をたてて、三ケ月の間御滞留になったことがある。そのとき島のうちをくまなく御廻りになり、美しき風光を御賞美になった。
 このとき、里の方、越賀村の境に近く「馬の脊山」の地があり、その近くに「池の浜」の地があるが、そこで種々の美石をお採りになりお持帰りになった。それ以来、この石は、「池の浜の美石」と称してこの地の名物になった。
 この伝説は持続天皇紀の志摩行幸から出たものと思われる。又この美石と称するものは、越賀御座岡村の境なる、英虞湾側の海岸に産する中生層の硬砂岩の岩片であるが、黒色と白色とが薄く互層になり、しかもそれらの層は、小礫片ながら美しく褶曲や断層を示していて、一見甚だ美麗であり、不思議な印象を与える。地質学上の好標本でもある。里人は「縞石」(しま石)と称している。


N七代たたる家筋(鈴木敏雄編)

 今は御座村のうちに、続いて存在する家筋かどうかは知らないが、遠い祖先が偶然の失態によって、その子孫七代までがたたりを受けているという無稽の里伝がある。
 その一は谷川某家で、古い祖先がある日にその祖の五十回の年忌に当って墓参りをしたところ、帰り道で誤って墓地の入ロにあった六地蔵の一を顛倒させた。ところがその夜の夢に、「こともあろうに、六地蔵を倒すとはその罪軽からず、以後七代たたる。」ということであった。この仏罰によって今に数代つづきで病弱の人か多い。
 その二は南某家で、数百年の昔、沖の方より小船に乗ってきた一人のの平家の落武者があり、「追手におわれている者である、どうか暫くかくまってくれ」という。家人は大に恐れてそれを断った。その武士はやむなくその家を出て逃げようとしたが、その瞬間に追手に捕えられて遂に殺された。死するに当って、「恨み骨髄に徹した、この家に七代たたる。」と云った。これなどは甚だ迷惑なる伝である。
 又その三は林田某家で、この家は先祖代々神仏を信仰することが厚く、毎年一回ずつ寺社巡歴をしていた家筋である。ある一代には朝熊岳に登って名僧になった人もあるという。
この憎が七十歳をこえて、西国巡礼を思いたち、奈良の寺社を巡歴して後猿沢の他の風光を賞していたが、腰をかけていた池の岸の岩石が崩れて池中に落ち、その直下に泳いでいた大鯉に当って死んでしまった。その夜の夢に、「われは百年をいきた老鯉である。偶然のこととは云いながら、聖他のわれを死にいたらしめるとは以ての外の大罪、ことにわれは以後尚三百年の齢を保つべきであったのに、今日限りとなってしまったのは残念にたえぬ。汝より以後七代たたる。」というのであった。
 今そのたたりの如何なるものであるかを聞くに、若死、病弱、眼病、跛足、難聴、奇形等であり、遺伝又は環境衛生等によっての現象がその総てである。ことに御座村等のごとき、古くより純然たる一区画を占め、他村との婚姻をいとう風習地にあっては、この諸現象は甚しく起りやすいものである。これをしも神仏のたたりとするが如きに至っては、神仏の威徳を甚しく冒涜するものと言わねばならぬ。又「七代たたり」の伝説は全国的に布するものであるが、わが片田村にもその伝があるが、御座村のごとき数多いものは他に多く例がない。俗信の甚しいものである。

 TOPへ 「御座」あれこれ・目次へ